御由緒
筒井八幡神社は、平安時代に宇佐八幡宮から勧請されたと伝えられております。
平安朝から鎌倉時代にかけてこの辺り一帯は筒井村と呼ばれており、当社は摂津国菟原郡筒井村の総氏神です。
昭和の大戦で、境内はおろか町全部が焼け野原と化し、古文書などは全て焼失した為、
創建年は不明ですが、御本殿には明徳四年(一三九三年)にご再建された金幣が残されております。
そして戦後、氏子崇敬者各位の並々ならぬ御協力を得て徐々に今日の復興を見るに至ります。
当社は元々神宮寺であり、且つその神宮寺の勢力は絶大だったと見え、当時の御社殿は丹塗り菊の御紋章附きでありました。
鎌倉幕府の滅亡、即ち建武の中興への勤皇の歴史に、当社はたびたび登場します。
赤松則村が摩耶の城に義兵を挙げた際、筒井村の住人に協力を求め、村民一同大いに喜び土工、糧食の運搬などに従事しました。
屈強な若者たちはこの作業に従事し、また戦闘にも参加します。
その中で特に秀でた功績をあげたのが、当時16歳になる筒井太郎でありました。
身の丈6尺余り(約180センチほど)あり力も強く、矢を放てば筒井の森から武庫川のあたりまで達したと噂され、
馬に跨って摩耶山を登る際、馬が疲れれば背負って登っていくなど様々な伝説が残された傑物でありました。
赤松則村に従い常に八幡大菩薩の旗をかざし「筒井弓矢八幡の太郎」と名乗り数々の功績を挙げたが
建武の功賞に赤松一族は排斥され恩賞にあずかることはありませんでした。
その後、則村の忠誠心にも変化が表れ、筒井太郎も筒井村に帰ることを決断し「筒井には清き泉の湧き出でて 濁りを祓う神のますら雄」
との詠を残して筒井村に帰り、ほどなくして湊川の戦がはじまります。
筒井太郎は氏神にちなみ、八幡太郎森正と名乗り楠木正成公の軍に参加しました。
楠木正成公が当社に詣で、筒井の森に陣を構えることこそ戦法に適っていることを熟知されつつも
朝廷の詔に従い、敢えて兵庫で闘い遂に湊川で討ち死にされたことも社伝として伝わっております。
尚、楠木正成公と共に自決し果てた70余人の中に、摂津国筒井の住人、
八幡太郎森正という名が残っており、この方こそ往年の筒井太郎だと伝えられております。
八幡大神の鎮まり坐すこの筒井の森の清泉の心を、身を以って全うした筒井太郎の史談は、
氏子崇敬者の皆様によって永く伝えられるべき、大いなる誇りです。



春日神社:平安期から筒井村のすぐ南にある春日野という地域でお祀りされてきたお社で、春日野という地名はこの春日神社が由来となっております。
現在、筒井八幡神社御本殿内院にて共にお祀りしております。
天満神社:江戸時代、当神社内に神宮寺の寺子屋ができ、学問の神様としてお祀りされておりました。寺子屋は明治六年、筒井雲中分教場となり、現在は小学校になっております。
現在、筒井八幡神社御本殿内院にて 共にお祀りしております。
つついの井戸

筒井という地名の発祥となった井戸です。
この井戸は掘ったのではなく自然に湧き出た泉です。
現在は近年の都市開発、新幹線の整備工事などに伴い水質や水脈も変わってしまいました。
古くからこの森には霊水が湧き出ており、それを「つゝの井」と称し、
この森を筒井の森と呼ぶようになったそうです。
摂社 三宝荒神社
火除け・火災守護の神様

かつて兵庫県(摂津国)莵原群筒井村の神宮寺(現筒井八幡神社)にお祀りされていた荒神さまで、元々は愛宕神社の愛宕権現として祀られていました。
日本では台所や竈が古代から最も重要で清浄なる場所であると考えられてきました。民間信仰では荒神様は清浄な場所を好まれる神様であり、不浄や災難を消し去る神様として信仰されており、それは今も変わることなく、「火と竈」の守護神として信仰されています。
本殿は特殊な造りとなっており、御本殿は朱塗りの権現造、屋根は檜皮葺。
また、本殿を覆うように社殿が建てられており、社殿は神明造りとなっております。


三宝荒神社の境内には、明治4年(天明元年)建立の宝篋印塔や仏様もお祀りしております。
明治時代の神仏分離政策によって、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、梵鐘の取外しなどを命じたため、
神宮寺であった頃の影響が色濃く残っているのは全国でも珍しいです。


末社 稲荷神社
五穀豊穣・商売繁盛の神様

稲荷神社には二柱の神様をお祀りしております。
すぐ近くの神戸市中央区割塚通のあたりに石碑があり、ここには古代、割塚稲荷神社がありました。
この割塚という地には横穴式の太古遺跡があり、割塚古墳は、六甲山の南側に多くあった古墳群の一つで7世紀ごろのものと思われます。
この古墳について伝説は二つあると伝えられており、
一説によると、ある頃村が衰微した際にこの古墳の周囲には金の瓦が眠っていると噂され掘り起こしたが全く見つかりませんでした。
その後村の者が病に罹るなどしたため、厄災を退けるためお稲荷さんを祀ったという説。
また16世紀豊臣秀吉統治の時代には、天正12年秀吉が大阪城築城のため大石を諸国の大名に命じ集めており、
その際この古墳群があった地域は海も近く船積みの便があったため、この古墳の巨石も大阪へ運ばれていきました。
その際でしょうか?塚が割れていたことから、後年この地域は割塚という地名がつけられたと伝えられております。
現在割塚には「布敷首」というはるか昔この地域に住んでいたであろう一族の霊を讃えた石碑があります。
この石碑は大正十四年頃、潮海久太郎という当時の土地の所有者が建てたもので、この石碑も残っていた割れた巨石です。
石碑には、「和理塚者布敷首之古墳也霊域也 大正15年歳次丙寅潮海久太郎」
という一文があり、建てられた時期と建てた人物を後世に伝えることができております。


その後、昭和10年に阪急電鉄の高架が通ることとなったため遺跡は取り除かれ、現在の位置に石碑が移されました。
戦災で筒井八幡神社は、被害がひどく本殿とともに末社であった稲荷神社も焼失しました。
そこで、割塚稲荷の本殿、拝殿、石の鳥居、石の手水鉢などを寄進し、筒井八幡神社に合祀され、現在に至ります。
祖霊社


この地域出身の武士としてご活躍された筒井太郎をはじめとした氏子の方々の祖神をお祀りしております。
神葬祭、永代供養は随時承っておりますので、詳細は社務所までお問い合わせください。